あくまで個人的な感想なので、独断と偏見があると思います。
その点を留意の上でお読みください。上になるほど新着更新です。
末尾の日付は更新日です。はおすすめ作品。
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守り人シリーズ『闇の守り人』 上橋菜穂子
『ファレルとリラ』 ピーター・S・ビーグル
『霊玉伝』 バリー・ヒューガート
『かなしき女王』 フィオナ・マクラウド(マクラオド)
守り人シリーズ『精霊の守り人』 上橋菜穂子
『黒ばらさんの七つの魔法』 末吉暁子
『ミサゴの森』 ロバート・ホールドストック
『錬金術師の魔砲』 J・グレゴリイ・キイズ
『ケルトの白馬』 ローズマリー・サトクリフ
『まぼろしの小さい犬』 フィリパ・ピアス
守り人シリーズ『闇の守り人』 上橋菜穂子
カバー画・挿画:二木真希子,偕成社(1999年2月)
ISBN4-03-540210-9 【Amazon】
カンバル王位を狙うログサムの陰謀で父親を殺されたバルサは、父の親友ジグロによって生まれ故郷のカンバル王国を脱出。 そのためにジグロは汚名を着せられ、討手をかわしながら放浪の旅を続けてきた。バルサは亡きジグロの汚名を晴らすべく、カンバル王国に戻ってきた。 人知れず国内入りしようとするが、洞窟で『山の王』の家来ヒョウル<闇の守り人>に襲われているカッサとジナの兄妹を助ける。 バルサは二人に自分と出会ったことを口止めするが、ジナが王しか採ることのできないルイシャ<青光石(せいこうせき)>を洞窟から持ち帰ったことで、事態は兄妹の手を離れる。
ジグロの末弟ユグロは、カンバル最強の短槍使いであり、カンバル王を守る<王の槍>を束ねていた。ユグロはバルサを捕らえて抹殺しようとする。一体なぜ? カッサは敬愛するユグロのやり方に疑問を抱く。バルサはカンバル王国の隠された陰謀を嗅ぎ取る。 折りしも35年目にして山の王との儀式が再開されようとしていた。山の王に貢物を供える変わりに青光石を贈られ、それを糧食にして飢えを逃れる大事な儀式だ。 最も優れた短槍使いだけが、山の王へと至る最後の扉を開けることができる。しかし、その前に短槍使いはヒョウル<闇の守り人>に認められなければならない。 ヒョウル、そして山の王とは何者なのか?
ユグロの言動は政治家のそれである。彼のような人物の執る政治が国にどう影響するのか、という政治的な部分も興味深い。 個人あってこその国であり、国が個々人の生き方や考え方を規制すべきではないというようなニュアンスが感じられる。 物語のなかだけではなく、実在する問題が提起されていることにある。とは言っても難しくはなく、わかりやすくて楽しく読める。
ティティ・ランが登場したとき「コロボックルだぁ」と思った。ティティ・ランかわいい。ティティ・ランのような存在もいるとなると、今後何が出てくるのかわからないな。 山の王は幻想的で美しく、予想していた姿とまったく違ったので意表を突かれた。ルイシャ<青光石>がそんなものだったとは!(2003.2.22)
『ファレルとリラ』 ピーター・S・ビーグル
訳:鏡明,SFマガジン1976年12月号掲載
原題:FARREL AND LILA THE WEREWOLF(1969)
どのようにガンジーはMLKに影響を与えなかったニューヨークで暮らすファレルは、リラ・ブラウンと同棲していた。ある夜、ファレルはリラが人狼であることに気づく。 彼女は満月の夜に、人狼に変身するのだった。 人狼となったリラは、ファレルが眠っているときに夜の街を徘徊して犬を殺していた。 ファレルは、結局リラはリラなのだと思い、自分が気づいていることを黙っていたが、やがてこの件について二人は話をする機会がやってきた。 リラは愛してると言うが、ファレルは後悔していた。一緒にいるつもりがないとわかっているなら、知るべきだはなかったのだと...。 ビルの管理人は本能的にリラが人狼だと気づく。彼はリラに殺された愛犬の復讐をすべく、銀の弾を込めた銃を持って人狼の跡を追う。 ファレルとリラの母親は、犬たちを従えて街中を駆け回るリラを追う。だが朝が訪れ始めたとき、人狼リラは人々に囲まれてしまう。
そんな状態の中で、例えどんなことであれリラの秘密を知ってしまったことで、抜き差しならなくなったことを後悔しているのだ。 それはファレルの責任回避と受け取れる。彼は自分が誠実ではないと知っているからこそ、責任を負うことができないのだと思われる。 初めから責任というものが何なのか考えもせずにいる人よりも、ずっとファレルは誠実だと思う。 彼が奇妙な悩みを持つ女の子に惹かれるのは、自分を必要とする人を求めているからではないだろうか。でも他人と深く関わることを恐れている。(2003.2.22)
『霊玉伝』 バリー・ヒューガート
訳:和爾桃子,解説:山岸真,ハヤカワ文庫FT(2003年1月)
カバー画:小菅久実
ISBN4-15-020330-X 【Amazon】
原題:The Story of the Stone(1988)
李高(リーカオ)老子に弟子入りした十牛。彼らのもとに哀谷にある寺の管長が、事件の解明を依頼する。 事件はひとりの法師が殺され、手には書庫から盗まれた手稿を握っていた。その手稿は司馬遷によって羊皮紙に書かれものだった。だが、李老子は贋作だと言う。
管長が亡骸を発見したときに音が聴こえ、音源を辿って行くとそこだけ見事に草木一本も残っていなかった。 そのとき月明りに、踊る僧侶・躁喜(そうき)導師たちを見て震え上がる。 人々は750年の暴君・笑君(しょうくん)が復活して、法師を殺したのだと言う。躁喜導師は笑君の僕だったからだ。
李老子と十牛は、笑君の子孫である領主・劉宝(リウパオ)王とともに、笑君の墓所へ赴く。 李老子と十牛はすでに何者かが侵入した痕跡を見る。盗まれたものは石だった。 その石こそ司馬遷が悪と記し、笑君の力の源だった。李老子と十牛は音と石の正体、石の行方と力の秘密を明かすべく奔走する。
前作に比べると、李老子の悪辣なほどの毒気がほんの僅か影を潜め、十牛はちょっと分別くささがついたような。 これぐらい複雑なストーリーになると、キャラクター性がやや影を潜めるのは仕方ないのかもしれない。 また、人間の内面性に関わる話だからなのだろう。 今作では月童(げつどう)と暁愁(ぎょうしゅう)という男女が登場。この月童、並ではない。天性の才能と性格は別ということなのだな。 でも彼と李高も嫌味がない。それなりにどぎつい描写もあるが、嫌味がなくカラリとしている。 私は「ぐー、ぐー、ぐー」(静眼湖の一行)がとても気に入った。好きだな、これ。ぐー、ぐー、ぐー。
李高が入手した、司馬遷による羊皮紙の切れ端だが、これは私でもヘンだと思う。 中国で羊皮紙は使われていないはず。羊皮紙であろうとなかろうと、内容に障りはないのだが。
司馬遷(前135?もしくは145?-前86?)は前漢(前202-後8)時代の人。 この時代は一般に木簡・竹簡、他にケンハク(細かく織った絹)が使われていたという。 しかしケンハクはとても高価なので、おいそれと使えるものではなかった。
では紙がなかったと言うとそうではなく、現代の紙とは異なるが、司馬遷が仕えた武帝期以前にあるにはあった。 だが実用化されていたかどうかは不明で、仮に実用化されていたとしても、高価なので司馬遷には使うことができなかったろう。 しかし中国では、これまで紙は発見されても羊皮紙は発見されていない。木簡・竹簡から紙へ移行したと考えられている。 ちなみに羊皮紙はアナトリアのベルガモン王朝(現トルコのベルガモ)の、エウメネス二世(在位前197-前159)によって開発されたといわれている。(2003.2.7)
『かなしき女王』 フィオナ・マクラオド(マクラウド)
訳:松村みね子,沖積舎(1989年9月)
解説:井村君江,カバー画:東逸子
ISBN4-8060-3007-4
収録作:海豹/女王スカァアの笑ひ/最後の晩餐/髮あかきダフウト/魚と蠅の祝日/漁師//約束/琴/淺Pに洗ふ女/劍のうた/かなしき女王
痛みを手放す方法スコテッシュ・ケルトの創作民話・伝説。異教とキリスト教が混ざり合おうとする時代を背景としている。 キリスト教化によって失われたスコテッシュ・ケルトの伝説を、創作という手段で再構成したものと言えるだろうか。
訳の語調もあるが、私には小説として"読む"より、例えば『ニーベルンゲンの指輪』(例えであって似ているわけではない)のような「歌劇」として"観る"方がシックリするのではないかと思う。 小説としてつまらないのではなく、些か戯曲的な文体であり、歌劇の雰囲気があると言うこと。小説としてどうかと言えば、格調高く香気はあるが、全体に断片的な作品ばかりなのでちょっと印象が残りにくい。 登場する伝説の人物たちのことや逸話を知っていれば、この作品集を見る目が変わってくるのかもしれないのだけれど...。それがわからないので、断片的で物足りなく感じられる。 書かれていることの意味を辿るより、荒々しく猛々しく時に神秘学的な雰囲気を味わう作品集ではないだろうか。
解説によるとフィオナ・マクラオド(もしくはマクラウド)は女性名だが、本名をウィリアム・シャープ(1855-1905)と言うスコットランドの男性作家。アイルランド文芸復興を推進したイエイツやダグラス・ハイド(私はこの人を知らない)と同時代となる。 ウィリアム・シャープはスコットランドのケルト文芸復興を志したが、病身だったために実際的な文芸活動はできず、また政治活動もできなかった。彼が女性名を使うのはこのことと関係があるのかもしれない。
訳者の松村みね子(本名・片山廣子。明治11−昭和32年)は、大正から昭和にかけて活躍した歌人、アイルランド文学の翻訳家。 彼女の類稀なる知性と教養は、同時の文豪たち森鴎外(「鴎」は略字)や坪内逍遥、上田敏、芥川龍之介、室生犀星などから一目置かれていたという。
松村による本邦初訳の『かなしき女王』は、大正14年3月15日に初版を刊行。いわば沖積舎は復刻版で、松村の訳調をそのままとしている。 つまり旧漢字・旧仮名遣いのままで改訂していない。 『収録作』に各タイトルを書きだしたが、出来る限り原文のままとし、どうしても表記出来ない場合に限って当用漢字を採用した。本文もこの程度の旧漢字なので読めないということはない。
松村はフィオナ・マクラオド全集(全8巻)のうち、一冊(全20編)から12編を翻訳。それが本書である。 ちなみに松村の蔵書は、日本文学関係が東洋英和高等部図書館に90冊、洋書は日本女子大学図書館に159冊寄贈され保管されている。 だが、本書の底本となった一冊が欠本しているという。(2003.2.4)
追記)2005年11月にちくま文庫から、戯曲「ウスナの家」を加え、当用漢字・現代仮名で刊行。 【Amazon】
守り人シリーズ『精霊の守り人』 上橋菜穂子
カバー画・挿画:二木真希子,偕成社(1996年7月)
ISBN4-03-540150-1 【Amazon】
新ヨゴ皇国の聖祖・トルガル帝が来る前、この地には『ヤクー』と呼ばれる民族だけが住んでいた。 ヤクーは目に見える普通の世<サグ>と、普段は目に見えない別の世<ナユグ>があり、二つの世は同時に存在していると考えていた。 百年に一度、ナユグの魔物が目覚めて、子どもの魂を喰らうという。その魔物を200年ほど前にトルガル帝が退治し、それが新ヨゴ皇国の正史となった。
タンダはバルサの話から、チャダムに宿っているのがナユグの生き物『ニュンガ・ロ・イム』の卵だと気づく。 ニュンガ・ロ・イムはサグの人間に卵を産みつける。卵は夏至の満月の夜に孵るのだが、もし卵が孵らなかったら、この地はひどい大旱魃に見舞われるという。 タンダはヤクーに細々の残る言い伝えと、トルガル帝の伝説に食い違いがあることを知る。 またニュンガ・ロ・イムの卵を好物とする『ラルンガ』が狙っていることを知る。しかしラルンガの正体も退治方法も、卵を守る知恵も失われてしまった。 タンダと彼の師匠・呪術師トロガイは、ラルンガ退治の方法を模索する。 バルサは狩人とラルンガからチャダムを守ろうとする。そんな中、チャグムの体に孵化の兆候が表れた!
特殊な能力を持つ者はこの世サグと二重写しに、もう一つの世ナユグを視ることができる。 ところが多くの人には視えないから、視えないことを信じるのは難しく、ヨゴ人のようにナユグに対する知識は失われる。ゆえに星読博士と、その最高位である聖導師は間違いを犯す。 ワイツゼッカー(1920〜,独)ではないが、私たちにとって歴史(過去)とは何かということに対するわかりやすい例えだろう。
異世界を舞台とした国産ファンタジィは多く、それらの作中では作者によって、様々な気候風土・人種が創造されている。 ところが日本は島国のため他国と国境を接していないからか、単一民族だからか(必ずしも単一民族とは言えないと唱える学者もいる)、私の知っている限り、民族性の相違がまったく見えてこない作品が多い(だからと言って、作品の良し悪しが決まるのではない)。 民族が違えば史観も違うのはごく当然だろうに。文化や祖先が異なるから民族が異なるのではなく、史観が違うから文化が異なり民族が異なるのだと思う。
この作品の何がいちばん気に入ったかと言うと、ストーリーはもちろんだが、ヨゴ人とヤクーという民族史観の違う、二つの文化の衝突にある。 それは征服/非征服、つまり支配/被支配という、非常に政治的な関係による。 両民族が混淆してゆくことによって、お互いの文化が変質してしまう。そのため代々引き継がれてきた貴重な知恵は、歪められ失われてゆき、しまいには原型を推し量ることが困難になってしまう。 「衝突」ではなく「交流」であったとしても、同じことが言えると思う。ともあれ、民族学的史観に立った姿勢は、国産の異世界ファンタジィとしては珍しいのではないだろうか。 ただし私は珍しいからではなく、作品から作者の思想性を感じられるところが好きだ。(2003.1.29)
『黒ばらさんの七つの魔法』 末吉暁子
カバー画・挿画:牧野鈴子,偕成社(1991年10月)
ISBN4-03-540060-2 【Amazon】
目次:黒ばらさんと空からきた猫/黒ばらさんのベニスの恋/黒ばらさんのうぬぼれ鏡/黒ばらさんとふしぎな少年/黒ばらさんのカンボランダ/黒ばらさんと楽園のとんぼ/黒ばらさんと白ばらさん
アカシア団地に住み、駅ビルの一室を借りて悩みごとの相談室をしている黒ばらさんは、40歳ぐらいの普通のおばさんに見えるけど、実は135歳。魔法学校を卒業した、れっきとした魔法使いだったのです。 でも黒ばらさんが使える魔法は、「変身術」と「飛行術」のみ。二級魔法使いなのです。タマネギ型のヘアスタイルで、人のいい黒ばらさん。 そんな黒ばらさんが遭遇した事件を描いた連作集。黒ばらさんの部屋に紛れ込んできた、性格の悪い黒猫が巻き起こす騒動。水人族の若者と結婚して、人魚となった幼なじみヘブジバーの離婚騒動。黒ばらさんはヘブジバーと再会するベニスで、エメラルド色の瞳の青年に出会いドキドキ。 折りしもベニスでは、美少女を狙った連続殺人事件が起きていたのです!
実際よりも若く映してくれる『うぬぼれ鏡』をなくした黒ばらさん。鏡を持っていたのは少年ひでくんでした。黒ばらさんは少年が不思議な力を持っていることに気づきます。 そして悩んでいる少年の力になろうとするのですが...。
毎週金曜日の夜にはコウモリによって、世界中の魔法使いや魔女、妖精、妖怪たちが愛読している情報誌『魔界通信』が届きます。 『魔界通信』紙上では、魔法使いや妖精、妖怪たちの住処を守るため、地球の土と緑を救うキャンペーンが大々的に繰り広げられています。 『地球の土と緑を救う委員会』に属する十三番目の魔女(誕生日に招かれなかったため、いばら姫を百年も眠らせた魔女)から、植物カンボランダの種が届きました。 ところがカンボランダのおかげで、とんでもない騒動が起こります。
魔法使いとしてやっていくか、普通のおばさんとして生活するか悩んだ黒ばらさんは、風船に変身して風の吹くままに漂います。辿り着いたところは...。 自分を待っていてくれる誰かがいること、自分が誰かの力になれること。そして自分を信じてくれる人がいること。 それは魔法ではどうにもできず、また年齢に関係ないことなのです。(2003.1.11)
『ミサゴの森』 ロバート・ホールドストック
訳:小尾芙佐,解説:山岸真,角川書店(1992年3月)
ISBN4-04-791197-6 【Amazon】
原題:Mythago Wood(1984)
1940年代、スティーブは兄クリスチャンの結婚を機に、戦場からイングランドの実家・樫ノ木山荘へ戻る。 山荘には父の亡くなった後、兄クリスが暮らしていた。相手の少女はグゥイネスと言ったが、どこにも姿が見当たらない。 兄弟は考古学の研究のためにライホープの森へばかり行き、自分たちを省みない父親に、いい思い出がなかった。だがクリスは、いつの間にか父親の研究を受け継いでいた。
父親の日記から、父が森の不思議な力を研究していたことがわかった。森には神話時代の時間が流れ、太古の人々や生き物が闊歩していた。 そして森は、人の想念を実体化して肉体を与える。そうして発生した人間を"ミサゴ"という。
クリスの結婚相手グゥイネスはミサゴだったが、彼女と敵対する何者かに殺された。クリスは力の源を得るため、森へと分け入り戻って来なくなった。 そして新たなグゥイネスがスティーブの前に現われ、二人は恋に陥る。だがスティーブのグゥイネスは、突然現われた男たちに掠奪される。その首領はいまや壮年となったクリスだった。 森には現世とは違う時間が流れており、スティーブにとっては一年でも、クリスにとっては何十年もの歳月が経っていたのだ。
スティーブはグゥイネスを取り戻すべく、知り合った飛行士ハリー・キートンと共に森へ踏み込む。森は現実に見えるよりも果てしなく広大な異界へ繋がっており、そこでは神話世界が息づいていた。 スティーブとクリスは、最初の外人"ウルスカマグ"に追われつつ、やがてグゥイネスを巡る神話に取り込まれてゆく。
見た目にはライホープの森は小1時間ほどで一周できるのだが、その実、内部は広大な異界へと繋がっている。そこには神話世界の住民がおり、神話が脈々と息づいている。 この神話がどうして派生するのか根源は何なのか、ということがこの作品に深みを増している。 文明・文化、民族の対立、支配/被支配の関係。そこから様々な伝承が生まれる。それは人間の埋もれた歴史そのものである。 森は幾度も神話を再生産する。だが全く同じ神話が繰り返されるのではなく、その都度様々なバリエーションが生じる。スティーブとクリスを取り込んだバリエーションである。 異界の森は更なる異界へと通じる。そこに働く意志は何なのかは、読む側に委ねられる。
森という子宮的世界は地母神信仰ではないかと思うのだが、反して物語は父権社会そのもの。 グゥイネス伝説の祖型の時代が、すでに父権社会のようにしか感じられなくて、母系型の地母神信仰とはほど遠いような気がする。神話と言うよりも、男性中心社会となった中世の元始の物語と言った方がシックリするような。 アマゾネス的な性質を持つグゥイネスだが、結局は男たちの道具でしかないように思う。
ミサゴが人の想念を実体化したものであるなら、森は再現なく実体化したミサゴでうじゃうじゃと溢れないのかな?(2003.1.11)
『錬金術師の魔砲』 J・グレゴリイ・キイズ
訳:金子司,ハヤカワ文庫FT(2002年11月,上下巻)
解説(下巻):森下一仁,カバー画:堀内亜紀
上巻:ISBN4-15-020325-3 【Amazon】
下巻:ISBN4-15-020326-1 【Amazon】
原題:NEWTON'S CANNON(1998)
ヴェルサイユで過ごすルイの元に、かつてニュートンの親友だったファシオ・ド・デュイリエが謁見を許される。ファシオはルイに、究極兵器の開発を持ちかける。 当時、女性としては最高の教育を受けたアドリエンヌは、ファシオの研究に興味を抱く。彼女は数学に秀でていたが女性であるがゆえ、明晰な頭脳の持ち主であることを悟られまいと隠していた。
一方、植民地であるアメリカ・ボストンでは、ベンジャミン・フランクリン少年が、兄の徒弟となって印刷職人として働きながら、科学・錬金術の勉学に励んでいた。 ベンは画期的な発見をするが、謎の男ブレイスウェルに、錬金術から手を引くよう脅される。 だがベンは研究を続ける。ある日、ベンの改良した『エーテルスクライバー』(無線通信式のファックスのようなもの)で、科学者たちが数式を書いた文書を傍受する。何の数式なのか?
ルイが催した野外仮面舞踏会に、アドリエンヌも招かれるが、ルイの命を狙う何者かによって惨事が起こる。 アドリエンヌは彼女の女官となったクレシたちの力を借りて、ファシオが何を研究しているのか探り当てて驚愕する。
ブレイスウェルの魔の手から逃れるためボストンを脱出したベンは、イギリスのニーュトンの元へと向う。 ベンは自分が知らずしらずフランスに手を貸したことを知り、ニュートンが秘密兵器が何なのか明かしてくれ、その対応策をたててくれるとを期待していた。 だがベンが会えたのはニュートン本人ではなく、若き弟子たちだった。
物語はボストンのベンと、フランスのアドリエンヌを中心に、二人の物語が交互に展開する。錬金術師を目指す少年ベンの発明と功名心。彼を付け狙う不気味な男ブレイスウェル。 そしてルイの住まうヴェルサイユ宮殿に渦巻く陰謀、謎の秘密結社、アドリエンヌの恋。 この巻ではベンとアドリエンヌはいまだ直接相まえていないが、二人に共通する人物はニュートンだろう。しかしそのニュートンも歴史上知られている姿とは異なる。
スケールの大きさは地理だけではない。ファシオがとんでもないものを造り出すのだ。その破壊力たるや凄絶! この作品はファンタジィやSFファン以外も唸らせるに違いない。
しかし物語は全4部作だそうで、この作品は壮大なプロローグにすぎない。ルイやニュートンが手に入れたモノは何なのか、ベンやアドリエンヌを襲った力とは?その目的は? クレシたち<コーライ>の目的とは?そしてアドリエンヌの身に何が起きたのか!? 様々な謎が明かされないまま、物語はロシア皇帝ピョートルをも巻き込んでゆく。ともかく、早く続巻を翻訳してくれ!(2002.12.20)
『ケルトの白馬』 ローズマリー・サトクリフ
訳:灰島かり,ほるぷ出版(2000年12月)
ISBN4-593-53377-5 【Amazon】
原題:Sun Horse,Moon Horse(1977)
テルリとダラの結婚式直後に、南方からアトレバーテス族が襲来。 族長ティガナンや多くの人々が死んだ。ルブリン他生き残った人々は、アトレバーテス族の奴隷となった。 アトレバーテス族の族長クラドックは、ルブリンの才能を知り、ある仕事を命じる。ルブリンは一族のために、取り引きを申し出る。
少年から青年へと成長する、主人公のルブリン。 類稀なる才能を持つ彼は、それゆえに他人には理解されない。愛する人々に真から理解されない彼は、常に孤独を感じます。 しかし彼は機会を得て、一族のために命を込めて持てる才能を発揮します。彼の誇り高さ、尊厳。 未来に伝わるべく全精力を注いだ入魂の白馬。ルブリンは能力を全て出し切り、それで死んでも悔いはないと希う。 一生に一度でいい、持てる能力の全てを出し切れたら...。 それはもしかすると作者の願望なのかもしれません。(2002.12.12)
『まぼろしの小さい犬』 フィリパ・ピアス
訳:猪熊葉子,岩波書店(1989年7月)
カバー画・挿画:アントニー・メイトランド
ISBN4-00-115506-0 【Amazon】
原題:A DOG SO SMALL(1962)
絵の仔犬は『チキチト・チワワ』といい、チキチトとは「とてもとても小さい」という意味です。 ベンは絵に興味がなかったので、しばらくすると失くしてしまいました。
しかしそれからというもの、眼を瞑るとチキチトが見えるようになるのです。 チキチトは元気よく駆けずり回り、とても勇敢で恐いもの知らず。ベンはチキチトに会うために、誰にも邪魔されないよう一人きりで、始終眼を瞑って過ごします。 でも周りの人たちにチキチトが見えるはずもなく、お母さんはベンの様子がおかしいのを心配していました。その矢先にベンは...。
活動的な場面がなくベンの内面描写が多いので、正直に言って退屈気味の物語と思っていましたが、ハムステッド自然公園でのラストを読んで気が変わりました。 このラストがとても巧いのです。ベンは理想と現実とのギャップに、どうやって折り合いをつけるのか。 幻ではなく現実に対して、どうやって関わっていくのか。その心境の変化がとても自然で鮮やか。ピアスならではの鋭い洞察力。すべてはこのラストのためにあるのです。
ベンの祖父母の家の近くにセイ川があり、『ハヤ号』がチラリと登場!ハヤ号は健在です。 『ハヤ号セイ川をいく』より後の出来事だということが間違いなくわかるんです。巧い登場のさせ方ですね。(2002.12.
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