古い話ですが、一九一〇年、二〇年代に、「宗教なんか必要としません」という言葉が知識階級の人たちの合い言葉のようにいわれたことがあります。
私は神を信じません。僕は宗教を信じません。こういうことをいうと、その人はインテリであるというふうな代名詞になったことがあります。
しかし、我々からいわせれば、宗教を必要としませんといっている人というのは、その人には、まだ宗教の必要性が出ていない、そういうところで生きているのだということなのです。
〈中略〉
本当はそういう人たちにこそ、大疑現前してもらわなくてはいけない。
平田精耕老師『活人禅』PHP文庫、153頁
遺跡はc.s.lewisを下回るよう
臨済宗の天龍寺師家をお勤めだった平田老師は「古い話」と仰いますが、実際のところ、この時代に「無宗教」を訴えた「知識階級」の言葉は、今の世にも影響しているといわざるを得ません。それも、その「知識階級」の言葉を「批判」出来ない者たちによって再生産されながら。そして、平田老師の仰るように、そういう人たちにこそ、宗教への目覚めである「大疑現前」していただかなくてはならないのです。
つまり、「生きている人」というのは、「ただ今生存している人」という意味ではなくて、未だ「死苦=無常」への目覚め(これを「観無常」という)がない人に対し、その事実を気付かせ、そして仏道への縁を繋ぐことこそが、「生きている人� �ためにある」ことの深意だと見るべきなのです。今、宗教を必要としていない、或いは、宗教を非難する人こそ、目覚めていただかなくてはならない、宗教というのは、全ての人が必要としているものなのです。
聖なる土地は何ですか
そもそも、宗教、仏教、或いは信仰という言葉、これら自体が使い古され、そして"余計な価値が付いた"垢染みた言葉であると思われます。だからこそ、それらの言葉を見聞きした段階で、それまで本人が蓄積してしまった情報がこれらの言葉を正確に把握させる機会を失わせるのです。しかし、その蓄積は本来の言葉の意味を探っていないということもあって、結局は迷いに迷いを重ねているようなものです。この迷いというのは、あくまでも仏教的な迷いであり、例えば理性的であるとか、科学者であるとか、哲学者であるとかそういう社会的地位とは無関係です。
イスラム教徒の理由であったマルコムXは、重要な
今、必要としていないのに、勝手に仏教的な迷いを定められ、そして教えを垂れられるのは迷惑だと思う人もいるかもしれません。ですので、拙僧もいきなり駅とか、往来の激しい交差点に立って、「あなた方は迷っている」とはいわないのですし、ここが拙僧のブログなので敢えて申し上げたいのですが、迷っていないと思っている人は、結局はそれもまた「妄想」に過ぎないのです、仏教的には。そもそも、「妄想」であるが故に、自分では迷っていることに気付きません。そして、その状態をこそ迷いというのです。自分が迷っていると気付いている人は幸いです。何故なら、解決しようという行動が起こせるからです。
迷いを解決するための方法、かつて仏陀釈尊が説かれたものは、まさにその方法ですし、それをこそ仏教というのです。しかし、これをいうと、仏教は哲学的なものや、ストイックな修行が大切だとばかり思う人がいるかもしれません。拙僧は、それもまた誤っている、それこそ、仏教を局限した見解だと思います。釈尊の教えは、弟子達との対論・問答を収めた一種の「語録」として遺されました。したがって、内容は哲学的だったと見えましょう。しかし、当時、釈尊をただ供養し礼拝しただけの人はいなかったのでしょうか?いたはずです。それは記録には出てこないだけ、或いは出ていても、学者がそれに気付いていないだけのはずです。実際には、仏陀を信じ、その言葉や雰囲気を� ��じているだけで、迷いは相当解決できるものですし、そのような仏縁を繋げば、他に問題が起きた時にも対処できるでしょう。
そして、「大疑」に至ってしまった人は、その解決法も難しいというだけでございます。これらを「機に応じた教誡」だというわけです。大疑に至った人は、自分で修行しなければなりません。各地の坐禅会は、その人にこそ開かれているといえましょう。是非、善知識を探してみてください。1人で坐禅をしてはなりません。それはただの健康法に過ぎませんから。健康なら幸せだという人もいるかもしれませんが、それはもう「別の宗教」かもしれません
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